「トラウマの影響」カテゴリーアーカイブ

ブログ☆【トラウマ体験とファッション】

【トラウマ体験とファッション】



お久しぶりのブログです。

釧路はあいかわらず停滞した前線や台風の影響で雨続き。

さすがに雨女で雨好きの私でも、もういいかげんツラいです。

今一番したいのは・・・「青空に洗濯物を干すこと!」

・・・そんな、今日この頃です。

みなさんが住んでいるところは、どんな空模様でしょうか。



とつぜんですが、私は先日はじめて髪の毛を染めるということをしてきました。

そして同じ日に、これもはじめて「ネイル」というものをやってもらいました。

今流行っているジェルネイルというもので、”キラキラ”もつけてもらいました。

これ実は、私にとってはものすごーーーく、ハードルが高かったんです。



指や爪にもずっとコンプレックスがあって、

いつも自分の手を目立たないように、

なるべく見せないようにしてきたように思います。

本当は、ものすごくがんばってきてくれた大事な大事な手なんですけどね・・・。



それに、女性らしいファッションや持ち物にもすごく抵抗があります。

髪形、服装、服の色や柄、メイク、アクセサリー、小物、靴、などなど・・・・

ブティックで試着するなんてこともすごく苦手!

遠巻きに見て、店員さんに気付かれたら目をそらして逃げちゃいます。

「こんなダサイ私が、こんなステキなお店のぞいて、すいませんっ!!」ってなっちゃう。



だから、何年も前になりますが、あるワークショップで私が尊敬するある先生の、

「・・・服装は、人生の比喩(ひゆ/「たとえ」のこと)」というつぶやきを聞いたときは、

なんだかわからないけど強烈なショックを覚えました。

当時の私は自分の問題に向き合って癒しを始めたばかりだったと思いますが、

まさに、「ガーーーーーン!!!」(@_@;)・・・・って感じでした。

「ボロは着てても心は錦」でいいとか、ほんとにそう思っていたし、

「生産性がない」「ムダだ」と自分が感じることに対してお金を使うことに、

とても強い抵抗感がありました。



また、家族のものを優先して、いつも自分のものは後回し。

これらは、主婦や母親が自分を優先したり、自分にお金をかける、

ということに対して強烈な抵抗感と罪悪感があったためだと思います。

地味で、目立たないもの、無難なもの、自分を隠すようなもの、安いもの・・・

自分が「好きなもの」ではなく、そういうものを選ぶ傾向があります。



そして「女っぽいものは似合わない」と自分で思っていたし言ってもきましたが、

実は・・・・そんなこと誰にも言われたことありません。

むしろ女性らしいファッションをするとたいてい褒められたし、

メイクも映える目や顔だということは専門家に言われて知っていました。

でも、やっぱり自分で避けてきたし、いまも抵抗があります。

ピンクの服なんてきっと一生選ばない・・・とも思っていました。



こうした自分のいろんな傾向や問題に向き合ってきて気づいたことは、

これらにもトラウマや成育歴が関係しているのだろう、ということです。



たぶん「ひとつの原因」じゃなく、いろんな「要因」があると思いますが・・・・

まず私が子どものころ住んでいた地域が、

女の子や女性たちにとって安全な場所ではなかった、ということが考えられます。

露出症の人が登下校時に車を停めて待ち伏せしているのはなぜだか日常茶飯事。

私は遭いませんでしたが、近所では車での連れ去りがあったと聞いています。

勇気を出して交番に行ったり、車のナンバーを通報したり、学校で訴えても、

報道されるとか、学校でプリントが出るとか、パトロールしてもらったとか、

地域や周囲の大人に守ってもらえたという記憶や実感が持てていません。

今書いてみると、改めて、本当はそうとう怖かっただろうなと思います。

たとえ触られていなくても、見知らぬ多数の相手からの性被害体験ですし、トラウマです。

冬場にひとりで歩いて帰宅するときは、ポケットに護身用の石を入れて握りしめていました。



また、当時親の稼業が忙しかったり、私自身にSOSを出す選択肢や力が持てなかったりで、

親に登下校を車で送ってもらうということもしませんでした。

こういう感じですから、「自分の身は自分で守らなければならない」とか、

「強くならなきゃ」とか、「女っぽい服装や恰好をしているとキケンだ」とか、

「大人の男はそもそもキケンだ」と思ってしまってもムリないですよね。



高3のときに夜道で追いかけられた(逃げ切ったけど)体験も、大きなトラウマです。

「未遂」であっても、「既遂」と同じくらいのトラウマになりうるとも言われているからです。

私は今でも、急に人影が見えたり声をかけられると、自宅内であっても飛び上がってしまいます。

専門用語で「驚愕(きょうがく)反応」といいますが、トラウマが神経系に残っているのですね。

また、どうしても体のバランスや重心が右足前方に乗ってしまうのですが、

これも、その時に左後方から追いかけられた影響が大きいと今は認識しています。

身体って健気ですよね・・・。実際にはもうそんな心配はなくても、そのときのことを覚えていて、

私たちを必死に守ろうとして備えていてくれているのですから。気づいたときは泣けてきました。

でも、このままだと身体にいろんな不具合が起こるし、常に警戒しているので疲労がたまりやすい。

現在こういう神経系に残っているトラウマについても、クライアントとしてケアを受けています。

あと、これもかなりヘンなんですが・・・

ハイヒールを見ると「あ、逃げられないのに・・・!?」という発想が自動的に沸きます。

それも私の後遺症(認知のゆがみ)といっていいですよね。単に好みやファッションなのにね。



それから、これは自分が癒して学んできてようやく気づいたことですが、

親の価値観や認識や不安を、何気ない一言やつぶやき、雰囲気からキャッチして、

子どもながらに親に見捨てられないように、親の意向に沿うように、適応するようにと、

無意識で行動したり選んだりしてしまうということもあったように思います。

あたかもそれが自分の純粋な意志や好みであるかのようにね。

親戚でもTVに出てくる誰かに対してでも、批判めいたことが語られたり、

それを雰囲気でキャッチしたりすると、「そうはしないようにしよう」、

「目立ってはいけない」「派手であってはいけない」と解釈していたようです。


さらに前述の「主婦や母親が自分を優先したり」、

「自分にお金をかける」ということに対する強烈な抵抗感や罪悪感・・・

これも、私の育った家だけではなく、おそらく日本の文化や価値観、

さらには歴史や時代背景から来る価値観の影響があったと今は認識しています。

これらは戦争や「集団的トラウマ」とも密接に関係していると思います。

第二次世界大戦が終わって今年で71年目ですが、

それって、実はそんなに昔のことではありません。

「欲しがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵」とか、

「良妻賢母」「夫唱婦随」「お国のために」などなど・・・。

言葉で直接的に私が言われていなくても、その時代の空気感や雰囲気は、

世代を超え、家族というシステムを通して、脈々と受け継がれているように思います。



ちなみに私は「迷彩柄」が苦手です。迷彩柄と戦争が直結してしまっているからです。

これも、同居していた父方祖父が2度出征した軍人で、戦争によるトラウマなどから

大きな傷を負った人であり、家族や周囲も傷ついてきたのを知っているからだと思います。

もちろん、これも本来はただの”柄”であり、ファッションなんですけどね。



こういうことに気付かずにいたころは、ファッションを楽しんだり、

女性らしいおしゃれ、個性的なおしゃれをしている人に対して嫉妬したり、

意味不明で理不尽な怒りを感じたりしていましたが、

クライアントとして自分の歴史やトラウマを理解するにつれ、

「ああ、本当は自分もオシャレやファッションを気軽に楽しみたかったんだなあ」と気づけました。

でも、しなかった自分のことも、「そりゃあムリもないよね・・・」と許せています。

今はできるところから少しずつ、小さくて大きなチャレンジをしています。



みなさんは、どんなファッションが好きですか。



今日はとても長くなりました。

読んでくださって、ありがとうございます。

ブログ☆【AC・アダルトチルドレン=子どもっぽい大人?!】

【AC・アダルトチルドレン=子どもっぽい大人?!】

ぐっと春らしくなったと思ったら、とつぜん雪が降ってきたり・・・

しばらくはまだ上着が必要な釧路ですね。

ここを訪れてくださっているみなさまはいかがお過ごしでしょうか。

上の写真は、おととい日曜日、よく晴れた釧路湿原の風景です。



先日「アダルトチルドレン(AC)は子どもっぽい大人のこと」という文章を

偶然目にして驚いた中谷内です。

SNS上でしたが、これは典型的な誤解ですね。

今もそういう誤解が実際にあると知ってちょっと残念でした。

私自身もACの自覚があって今のプロセスに至るので、

今回はこのことについて改めて書いてみようと思います。



改めまして・・・

みなさんは「AC」「アダルトチルドレン」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。

臨床心理の世界ではもうおなじみというより、かなり前に使われていた・・・

という感じもする言葉になってきていると思います。

実は私自身も初めて聞いたときは「子どもっぽい大人」とか、

「いつまでも自分の問題を親のせいにして怒っているオトナ」というふうに誤解していました。

しかし、本来の意味は全く違います。



ぐっと手短に説明しますと・・・

アメリカで当初、アルコール依存の問題がある家庭に育った人たちのことを

臨床家たちの間でそう呼んでいたのですが、

その後、アルコール依存問題に限らず、機能不全な家庭に育ったり、

様々な虐待を受けて育ったりして、

生きにくさを抱える人たちのことも含めて呼ぶようになっていきました。

その概念がいわゆる心の病の回復や自己の成長に役立つと考えられ、

日本にも紹介されたわけですが、

その際に例の「子どもっぽい大人」「いつまでも親のせいにして甘えてる人たち」

などという誤解も同時に広まってしまい、

せっかくその自覚に至っても自己開示できず仲間と出会えなかったり、

ACそのものに対しての風当たりが強くなっていったりしたようです。

また、「ACといえばアルコール問題」というイメージが強かったり、

認識は広まったけれど治療法の広まり・実践が追いついていなかったりして、

専門家の間、特に医療現場で批判や苛立ちを招く、という現象も起こってしまいました。

これもとても残念なことだと私は思っています。



そういうわけで、「AC」ではなく「サバイバー」とか「トラウマ・サバイバー」、

その後回復・成長した人は「スライバー」という表現を使うこともありますね。



そもそもACは病気ではありません。なので、精神科の診断名でもありません。

あくまでもひとつの「概念」であり「自覚」です。

だから、だれかに「あなたはACよね」なんて言われる筋合いのものではありません。

その「自分はACなんだ」「だから苦しかったんだ」という自覚が、

自分の回復や成長、あるいは生きづらさの理解や修正に役に立つ、

と思う人は持っていればいいわけです。

必要なければ持たなくていいし、自覚を持ちながら回復中の人は、

そんな自覚もいつかは薄れるということが起こりえますね。

「え?あ~、そういえば私もACですが、それが何か??」みたいに。

あるいは「ACだからこそ今の自分がある」と誇れるようにさえなるかもしれません。



また、AC概念が生まれたアメリカでは、文化的にもアルコール依存が

代表的なアディクション(嗜癖)であり、

そのために多くの人々がアルコホリックの子どもとして育っているという背景があります。

しかし、日本では体質的なこともあって事情が異なります。

その一方で、暴力の修羅場や、見えにくい虐待や支配にさらされている子、

親の関心を引けない子が少ないわけでは決してないでしょう。

私もそうですが、両親にアルコールの問題がなかったサバイバーたちにも、

このACという概念は今も十分に役立つものと私は考えています。



最後に、アメリカのセラピスト、ウェイン・クリッツバーグ氏の文章を紹介しますね。



「アルコール問題家族で育ったということは大変な環境の中で生きたということであり、

そういう環境を生き抜いた人々が創造性や勇気に欠けているはずがない。

彼らは真のサバイバー(逆境を生き抜いた人々)なのだ。

彼らにとってのこれからの課題は、

過去に身につけたスキルやテクニックをもっと創造的な新しい生き方のために使うことである。

自分を外に向かって開き、新しいスキルを学び、さまざまな見解に沿って行動してみること・・・

それが彼らにとっての挑戦なのである。」



明日からの心理学講座では、ACの自覚のあるなしにかかわらず、

私たちが抱えるさまざまな生きにくさについて皆さんとともに

多面的に考えていけたらと思っています。

知識は力。

各回まだ申し込み可能です。


参考文献:『アダルトチルドレン・シンドローム 自己発見と回復のためのステップ』

W.クリッツバーグ著 斎藤学監訳 金剛出版

ブログ☆【子どもの「症状」】

【子どもの「症状」】



前回のブログでは、子どもの巣立ちや、それにともなう親側の痛みについて書きました。

でも、書いている最中から、自分の中に違和感があることにも気づいていました。

その違和感とは・・・「いや、ときに巣立たなくてもいいよね」っていうことです。

もしくは、「巣立ちだって、人それぞれだよね」っていうことかな。

巣立ったと思ったら舞い戻ってきたり、何度か繰り返していつか巣立ったり。

なにか症状や問題行動のようなものがあってなかなか巣立たないように見えたり。

巣立たず、古い巣を自分の巣に作り替える、ということもあるんじゃないかなあ・・・。

今日は、そういったことについて書きながら考えてみたいと思います。



「ふつうは」「一般的には」「たいていは」、

学校に行って、卒業して、家を出て、仕事して・・・

ということは確かに多いように思いますが、

でも、そもそも「ふつう」ってなんなんだ?

「ふつう」以外は「いじょう」なのか?

そもそも「たったひとつのふつう」なんて、

実はどこにもないんじゃないの?

・・・と思ったりもします。



たとえば、体の発達もそうですね。

顔や性格、体型はもちろん、発達のしかたや特性もみんな違うし、

特に幼い時は個人差がとても大きいと「一般的には」言われています。

わかりやすい例を、今とつぜん思いついたので「歯」で考えてみると・・・

近年は生まれたころから乳歯が生えている子がいるかと思えば、

育児書に書いてあるような月齢に、ほぼ育児書にある順で生えてくる子もいるでしょう。

それから、これは私のある友人の息子さん(高2)の場合ですが、

虫歯でもないのにぐらぐらする歯があるので歯医者さんに相談したら、

実はそれが乳歯だったと判明したそうです。

歯科検診や、クリーニングも定期的に受けていたにもかかわらず。ちょっと驚きでした。

幼くなくても、実は個人差ってとても大きいんですね。

ちなみに、その乳歯の下の永久歯が横から顔をだしていたので、

今後のためにはそろそろ抜く必要があると言われたそうなのですが、

ある意味その乳歯のおかげで、1本の永久歯は虫歯になるリスクを今まで回避できていたわけで、

聞いていて私は、それもなんだかかえって遅くてよかったような気もしました。

物事にはたいてい、悪い面、良い面、両方ありますから。



こころのあり方や、巣立ちについても似ているように思います。

「反抗期」がある子も、ほとんど見当たらない子もいるし、

大人になってから反抗する人もいると思います。(実はわたくしがそうです。)

引きこもりや不登校をしていたり、学校への行きしぶりがあったとしても、

その後の変化は実にひとそれぞれのようです。



また、私たちは「症状」や、いわゆる「問題行動(と呼ばれがちなもの)」そのものを、

単によくないものとか、取り除くべきものとか、悪者としては見ません。

いろんなケースが考えられますが、基本的には多くの場合「必要があって」やっている

・・・と考えるからです。

そう考えると、物事のとらえ方や見え方が、開けていくように感じるのです。



ですから、その症状や行動を否定せず、

その背景について一緒に考えてみることは多いです。

そうすると、「17年モノの乳歯」のように、一見やっかいに感じられるものも、

実はちゃんと役に立っていたり、誰かや何かを守っていたり・・・

ということに、ふと気づくことがあります。



このことについては、奥が深くて書ききれないので、

いつかまた別の機会に、改めて・・・。



Nakayauchi